鹿谷勲 奈良・まつり旅

長年の奈良民俗に関するフィールドワークの成果をまとめています

Archive for the ‘「大和モノまんだら」’ Category

大和モノまんだら (1) クジ「人夫のアミダ」

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Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:17 am

大和モノまんだら (2) 風呂敷

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Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:16 am

大和モノまんだら (3) 苧桶 -人の魂の宿る桶-

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Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:15 am

大和モノまんだら (4) 小旗 -旗を立てて祈願をすること-

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Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:12 am

大和モノまんだら (5) 箸 -カミの箸・ヒトの箸-

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ーカミの箸・ヒトの箸ー

文 鹿谷勲
題字 松本碵之

ナイフ・フォーク派と箸派
レストランに入ると、ランチにナイフとフォーク、さらに箸が添えてあることがある。あなたはどちらを選ぶだろうか。私の場合は後者が多いように思う。前者の人でも、よほど西洋化した生活をしていない限り、毎日一度以上は箸を使って食事をしていることだろう。朝夕は自宅で塗箸を、昼は外食で割箸を使うという人も多いだろう。

箸の受容地 平城京
日本でいつから箸が用いられたのだろうか。
三世紀のわが国の風俗を記した『魏志』倭人伝には、「食欲には籩豆(籩も豆も器の名)を用い手食す」とあり、当時の人々は、手づかみでものを食べていた。
箸は七世紀に中国から伝わったとされるが、出土事例から見るとどうであろうか。藤原京跡からはわずかしか出土しないが、平城宮跡の内裏付近のゴミ捨て穴からは、たくさんの箸が見つかっている。次の長岡京跡からは一万本近くが発見されている。初めは箸の元も末も同じ太さであったのが、長岡京では先を細くしたものが大多数だという。次第に日本化してくるのが分かって面白い。
佐原真氏はこのことから、藤原宮(六九四〜七一〇)では下級役人はほとんど箸は用いず、手づかみで食べていたのが、平城宮(七一〇〜七八四)の時代に使われるようになり、八世紀末の長岡京(七八四〜七九四)では器用に箸を操り、役所からその家族にも広まり始めたと想定している。(「箸の起源」『講座食の文化第四巻家庭の食事空間』一九九九)
箸を用いる新風は、支配階級から次第に庶民へ広がった。いまでも子供が成長の過程で、手づかみから不器用に箸を使うようになる変化を、八世紀の平城京は体験しつつあったわけだ。

割箸の産地 大和
箸の歴史の中で、割箸の登場はかなり遅れる。江戸時代末期の『守貞護稿』によれば文政年間(一八一八〜三〇)以降とされる。引裂箸と呼んで、三都(江戸・大阪・京)の幌圏で使い始めたとしているが、『万載狂歌集』(一七八三)に「あれ一二輪山の杉のはし一本のはしを二体にひきさき」とあるので、さらに~瓶締るようだ。箸墓伝説のある三輪と割箸の関係には、興味をそそられる。
この割箸の産地としてその名を知られているのが、吉野郡下市町である。材料としては、のちには檜も用いられるが、良質の杉割箸が、芳香と割れやすさのために特に喜ばれる。その背景には、吉野杉などの豊富な木材資源の供給があった。幕末には商品生産が行われ、明治二〇年代には、関東にも販路を拡大し、大正期には全国の需要のほとんどを満たすまでに発展した。

箸の製作
下市町では家内工業として箸が作られている。自宅のミセの間を板張りにして、ここが仕事場になる。各工程で機械化がなされているが、手作りで角箸を作る東秀利氏をお訪ねしたことがある。アテという削り台の上で扇形に角箸を並べてカンナで一度に形を整えていく。返し棒を用いて、この扇形
の箸の連なりを一度にひっくり返す。見事な手さばきだ。
吉野郡野迫川村北股の西本喜作さん宅でも著作りを見せていただいた。ミズキの両口箸を作るのが本職であった。丸太を箸の寸法に合わせて切り、両端の木口をセンで削る。さらに木構で荒割りをして、勘でさらに小割りし、削り台の上に置いて小さくカンナで削る。慣れるまではよく指を削ったという。百人前を一把(二百本)とし寶で束ねるが`その姿は『人倫訓蒙図彙』に描かれたものとそっくりだった。いただいて帰り、自宅で使ってみて心から篤いた。姿はいびつな所もあるが、なんと手に優しく使いやすいことか。塗箸を放り出して、この箸で夕食をとるのが当時の私の楽しみだった。

箸を用いない習俗
現在、箸は調理用と食事用にもっぱら用いられる。調理用の箸は「菜箸」で竹製が多い。食事用としては、料理を取り分ける「取箸」や個人ごとに用いる「銘々箸」がある。銘々箸には塗箸が多いが、一回使えば捨て去る銘々箸が先の「割箸」だ。食事用の箸は、近年さまざまな形姿の趣向を凝らしてあちこちの店頭に並べられ、食卓を演出する大切な道具となっている。
これら食にかかわる著以外にも、炭火をつかむ火箸もかっては家庭には必ず置いてあった。神への供物に添えられる箸や骨を拾う箸、麻織物である奈良晒を作喝鍋程輻、原料である瀞縄{嬲を腱くときに用いるコクバシ(扱著)などもある〟しかし、各地の宮座行事などを見ているともう一つの習俗があることに気づく。それは箸を用いない習俗だ。月ヶ瀬村桃香野の八幡神社では、参籠所のコモムシロの上に座衆が座り、和紙の上に並べたトロロ昆布などを指も使わず、紙を持ち上げて口でそのまま食べる。また滋賀県朽木谷の麻生の正月行事「シイラ切り」では、扇子を少し開いてその上に下げられた供物を置いて食べる仕草がある。新風俗の箸はまず神の用いるもの、人は昔通りの手づかみで、という意識のなごりなのであろうか。

しかたに いさお(日本民俗学会員)

Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:12 am

大和モノまんだら (7) 指 -霊柩車を見て親指を隠すこと-

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Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:11 am

大和モノまんだら (9) 手風呂 -紙漉きの辛さを癒す一瞬の暖-

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手風呂 ー紙沸きの調さを願す一瞬の暖ー
文・写真 鹿谷 勲  題字 松本碵之

紙漉きと小さな暇
職人の働く姿を好んで描いた芝木好子さんに「和紙を漉く町」という作品がある。
関東の手漉き和紙として古くから知られた埼玉県の特産小川紙のことを記した紀行文だ(『日本の伝統美を訪ねて』一九七四所収)〝和紙を「この清らかであたたかいもの」と呼ぶ著者が、初めて目にする和紙作りを、人の動きに視線を合わせながら、歴史や現況も含めて巧みに描き伝えている。
火の気のない仕事場で、冷たい水に手をつけて紙を漉く女性の姿を見て「ゴムの手袋をはめて漉くわけにはゆきませんか」などといささか素人つぽい質問をしたりするが、「手の凍るときは小さな鍋に湯が入れてあって、ここであたためるしかない」とも記している。

漉き手の辛苦
紙漉きは家単位で夫婦を中心に行われる。漉くための下ごしらえは男がするが、肝心の漉く作業は普通女
性が行う〝上質紙は特に寒い冬に漉かれる)冷たい水に手をつけて行う作業の辛さは`<際良県の紙漉き産地である吉野町国栖地区に伝えられる作業側にも現れている。 〽わたしや紙漉き主ゃ筏乗り  おなじ商売冷たかろ 〽紙屋紙屋と好んで来たが  こんなおとろし商売か 〽国柄の紙漉き三年したら  髪は辛苦で皆抜けた 漉き手の女性の辛苦は、冬の長時間の水仕事なのだ。芝木好子さんが初めての見学で、漉き舟のそばにある小さな鍋を見落としていないのはさすがだ。紙漉きの研究書や工程を記したものを見ても、漉き舟のそばに置かれた手を暖める用具に触れたものはまず無い。私も何度も訪れながら、長らく気づかなかった。"コム手袋の話は、女同士のいたわりから出た言葉だったのだろう。 手風呂 吉野町歴史資料館には、同町窪垣内で宇陀紙を漉く福西弘行さんから寄贈された小さな容器が二点収蔵されている。テブロ」い手風呂)という。 一つは小判型の桶で、もう一つは円筒状のブリキ製のものだ。桶製のものは高さ三六センチ、口径は長い方が四五センチで短い方が三五センチほどある。片方には中央が膨らんだブリキの筒が差し込んであり、ここに炭火を入れる。筒の下には網があり炭が下に落ちないようになっている。湯を注いで炭火を入れておけば、湯は冷めない。桶の厚みは二センチもあり、重厚な作りだ。手元に 上左の手風高み調 順調第ミすら炭麦十出し作筆順~~實れ具章能 (『ふるさと吉野懐古写真集』ー986より) 〝:離~ー~嬲叩丶幽ゝ離~橿原市新賀町-森村家の鉄砲風呂 置く小型の風呂なので手風呂と呼ぶのだろう。漉き舟のそばに置いて作業の途中一瞬指先をつけたり、川岸で紙の材 あ〈料となるカミソ(紙素)の灰汁出しをするときなどに用いた(左上写真参照)。 酒風呂 この小判型のテプロと同じものを丶秋田県八郎潟の南の昭和町の資料館でも見た。閉じられたままで物置と化した資料館の一隅に、使い込んだ黒っぽいサカブロ(酒風呂)があった。吉野町のものより二回りほど大きい。馬の体や脚を洗うために使つたと町教育委員会の人が教えてくれた。大きな徳利をつけて酒の燗(かん)にも用いたという。内部の円筒はやはり中央が膨らんでいるが、こちらは鋳物製だった。 『秋田県のことば』によると同じものがフロコと呼ばれて、湯沸かし器と説明が加えられている。「風炉」と漢字を当てているが、これはやはり「風呂」であろう。岐阜県では「野風呂」と呼んで、屋外での酒燗 この手風呂は、京都では現在も湯豆腐桶として作り続けられている。京都市左京枢鵬牡寺真如町の中川清司さんは、神代杉を用いた手箱などの工芸作品を手がける傍ら、桶屋「たる源」から父親が受け継いだ精巧でし漁湖ゃな湯豆腐桶を今も作り続けている。高級料亭でしかお目にかかれぬ代物だが、仕組みは同じだ。桶の中の円筒は、ドウコ(銅壺)ともテッポウ(鉄砲)ともいう。桶の底板にこのテッポウをはめ込んで、水 中川青-,司氏作の湯-豆腐桶 漏れをさせないようにするのが腕の見せ所だ。 鉄砲風呂の小型化 小判型の風呂桶に差し込んだ円筒が今もテッポウと呼ばれるように、この手風呂は「鉄砲風呂」と呼ばれた本物の風呂の一種を小型化したものだ。この鉄砲風呂は、大庄屋を務めた橿原市新賀町の森村家に残されている。「別座敷の風呂」と呼ばれて、当主も用いたことのない客用の風呂であった。森村栄氏によると湯を沸かして入れ、炭火で冷めないようにしたものだという。 鉄砲風呂を小型化して、身近に温かい湯を確保した手風呂は、炭火を熱源としたかっての「保温ポット」だ。しびれてほとんど感覚がまひした指先も、この湯のおかげで紙漉きを続けることができた。しかし最近は「古い電気炊飯器で湯を沸かしておくのがちょうどいい」と吉野町窪垣内で~陶祇紙(吉野紙)などを漉く昆布加代子さんは笑って教えてくれた。料亭での湯豆腐桶として生き延びたもの以外、役目を終えた手風呂は、処分されるか収蔵庫で静かな眠りについたが、紙漉きの冷たさは今も変わらない。 しかたにいさお 日本民俗学会会員

Written by 鹿谷 勳

9月 29th, 2012 at 2:09 am

大和モノまんだら (12) ガス燈 -開化の光・その潤いと陰影-

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9月 29th, 2012 at 2:09 am

大和モノまんだら (22) 酒 -シモケシとザザンザー-

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9月 29th, 2012 at 2:06 am

大和モノまんだら (26) 袋 -人の一生と袋-

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Written by 鹿谷 勳

9月 28th, 2012 at 11:20 pm